五島列島旅行記

Antarctica(by kmさん)

五島列島
写真はリクエストをいただいていた南ジョージアのもののみ。南極半島の写真は未掲載。

*南極ツアー
第7の大陸南極には前々から興味はあったがなかなか訪問できなかった。寒い、高い、遠い、そしてなによりクルーズ船ツアーに参加するだけの長期休暇が取れなかった。南極半島に上陸することができるツアーは11-3月の間、アルゼンチンのウシュアイアなどからたくさん出ているが、南ジョージア島を経由する南極ツアーとなるとかなり限られてきてくる。ツアー参加の1年も前からいろいろな船会社・代理店にコンタクトを取っていたが、9月の申し込み時点で、11月出発の5つの船の中で一番安いクラス(3人部屋を他人と共有)が残っているツアーはひとつだけ(PS)で、ほとんど選択の余地はなかった。一番安いクラスといっても7200ドル。一国・地域にかける予算としては過去最高。けれど、参加できるのは一生に一回かもしれないし、南ジョージアを見ずして死んだら死んでも死に切れない(?)のでやむを得ない出費と覚悟する。PSはウシュアイア発着、19日間で、英領フォークランド諸島、英領南ジョージアを経由して南極半島とその周辺の島を回る。ウシュアイアの代理店では売れ残りチケットをディスカウント料金で売っているが、こと南ジョージア経由のものに関してはラストミニッツに期待してウシュアイアで申し込むのは売り切れの可能性があるので注意が必要だろう。ツアーの参加者は、50歳以上が過半数のようだった。ツアー参加者90数名の国籍は、米英NZ加独が多く、純粋なアジア人は私一人だけ。対照的なのが、クルーメンバー(船のスタッフ)で、その過半数がフィリピン人だった。これは「豊かな白人と、そうではない有色人種」という構造が21世紀になっても変わっていないことを象徴するかのようだった。ただ、日本人のご年配の参加が見られないのは、予算よりも言葉の壁が大きいのかもしれない。理由はともかく、豊かな地球の自然を日本人観光客があまり共有できていないのは残念なこと。機会を見つけてもう少し南ジョージアの魅力を宣伝したい。クルーズ船乗船中は、南極地方の動植物、地殻変動論、南極探検の歴史などレクチャーが豊富で、一人参加でも退屈はしなかった。ただ、英語に不安がある、または社交的でない人だと、食事の時など孤立してしまうので、家族や友人と誘い合わせて参加するのがお勧めだ。船の揺れに関しては、もっと小さな船に慣れている私はがまんできたが、もとフットボール選手だというアメリカ人のルームメイト(身長2m、体重200kgぐらい?)は思い切り吐いていてきつそうだった。防寒服などはウシュアイアの旅行代理店でレンタルできた。長靴など込みで100ドル足らず。

*南ジョージアとペンギン
南極に行くならどうしても南ジョージア経由にしたかった。南極大陸には生息していないキングペンギンのコロニーが見たかったからだ。キングペンギンは南極の皇帝ペンギンより一回り小さく、成長したもので80cmくらいだ。近くてみると、防水機能の
ある決め細やかな羽がとてもきれいだ。キングペンギンの性格はとても好奇心旺盛だ。黄色に特に興味を示すと聞いていたが、実際には着ている服の色に関係なく人間に近寄ってくる。中には近寄ってくるだけではなく服や持ち物をつついてくるペンギンもいた。私がレンタルした服も黄色の混じった青地だったが寝転んでいるとペンギンがつつきに来た。南ジョージアは一年365日のうち300日は雨か雪という観光にはあまり適していない土地で、ゾディアック(小さなゴムボート)による上陸も困難なことが多い。現に私たちのツアーでも予定されていた上陸が2回キャンセルになった。海上から見る星の数のようなペンギンの数と密度はまさに圧巻だ。私たちが上陸できたのは1番大きなコロニー(6万匹)でも二番目に大きなコロニー(2,5万)でもなかったが、大地一面に広がるペンギンの絨毯を目の前に一生分のペンギンを見尽くした感だ。ペンギンは陸上ではぎこちなく歩くけれど、実は泳ぎともぐりはとてもうまい。イルカのようにぴょんぴょんと軽快に水面を切っていく様子を何度か見ることができた。皇帝ペンギンは500mも潜水できるそうだ。(後日ガラパゴスでペンギンと泳ぐ経験をすることができた)

*南極条約とフォークランド
南極条約は南緯60度以南の地域を平和と科学の地と位置づけ、動植物の保護を徹底し、また各国の領土主張を凍結している。この条約は世界の主要国が批准しており2021年まで有効だ。南緯60度より北は南極条約の適用範囲でないので、領土主張は凍結されない。このことがフォークランド紛争と関係している。1982年にイギリスとアルゼンチンの間で勃発したフォークランド紛争:フォークランド(アルゼンチン名マルビナス)はパナマ運河が開通する1914年までは、ヨーロッパと太平洋を結ぶ交通の要所として非常に重要な意味を持っていた。しかし今は戦略的な意味で重要とはいえない。大英帝国の意地だけで戦争をしていたようにも思われる。実際にフォークランドがずっとイギリス領だったかといえばそんなことはないのだ。フォークランドは、フランスが1764年に最初に拠点を置いてから、英仏西、そしてアルゼンチンなどの間で、侵略や購買が繰り返されてきた。イギリスからすればアルゼンチンの攻撃は侵略であったがアルゼンチンからすればイギリスによる不法占領から領地を解放するための正当な行為だったともいえ、アルゼンチン人はいまでも自国領土と信じて疑わない。

*南ジョージアと捕鯨産業
20世紀初頭には、6つの捕鯨工場、21のフローティングファクトリー、そして61の捕鯨船を有し、南ジョージアは世界の捕鯨首都とも呼ばれていた。1859年に初めて石油が採掘されて以来、鯨油の重要性は相対的に低下していたが、天然のプラスチックともいえる鯨の髭(Baleen)は依然として巨大な富を生んでいたという。1965年までにはすべての基地が閉鎖され、かつての活気はどこにもない。現在では違法漁業を取り締まる政府職員や生態調査の科学者らのみが住んでいるだけだ。基地跡はアスベストなどの危険物質、建造物の崩落、建造物破片の飛来などの危険があり、基本的に近づけない。しかし、「首都」のGritviken(定住者がいないのに首都というのも変だが)では、危険物の除去と保守が完了しており、かつての捕鯨基地跡を歩き回れるようになっている。昔の地図を片手に、ペンギンやアザラシに占領されたかつての捕鯨
町を歩きながら、ノルウェー式教会や映画館跡地を探索するのは楽しかった。50年前までは繁栄していた植民地ないし「国」が無人になっているというのは感慨深いもので、国土や国ですらも普遍ではなく経年変化してゆくという自然の摂理(諸行無常)を改めて実感した。同様に、今から50年後にはなくなってしまう国もあるだろう。現にナウル・ツバル・トケラウなど地球温暖化等の影響で存続の危機にさらされている国もあるし、豪領ノーフォークのように、財政上の理由から自治権の返還が現実化しつつあるところもある。

*世界をもっと知りたい。
今回の旅をもって全大陸到達、そしてISO3166-1のカントリーリストに載っている国(無人の5地域を除く)をすべて訪問することができました。私はたとえ表面的でもいいからすべての国と地域を見たいと思ってきましたが、一応目標としていたステージに到達することができました。そこで、km通信では今後何度かに分けて過去の旅を振り返り、今後の旅の方向性について書いてみたいと思います。世界を知りたい、そして世界を見てくればいろいろなことがわかると思ってはじめた旅ですが、一回りして気がついたのは世界は未だ私が知らないことばかりだということ。一人一
人が違っていてかけがえがないように、それぞれの国や地域には独自の輝きがある。それを堪能するためにも、それぞれの国や地域の民俗、民族、生物、政治、経済、歴史、地理、もっともっと知りたい。今後は語学の習得も含めてもっと奥行きの在る旅をしていきたいと思っています。
1 きっかけは福江島
私が世界を旅したいと強く思うようになったきっかけは、はじめての一人旅で訪れた長崎県福江島のおばあちゃんとの出会いだったように思います。長崎といえば鎖国時代にも海外に開かれていた国際的豊かな地。上海、香港、台湾、韓国などへ距離は,東京長崎間よりもずっと短い。高校生だった私は、長崎の、日本にあって外国を感じさせるエキゾチックなイメージにひかれて、JRの青春18切符を手にやってきました。実際長崎市中心部のエキゾチックさは期待を裏切らないものでしたが、そこから船に乗って行った五島列島は外国ムードとは無縁な素朴な離島でした。ある日路上でおばあちゃんに会いました。80歳くらいだったと思います。彼女は私の一人旅に興味を示し、私たちはしばらく立ち話をしました。彼女は東京にも大阪にも行ったことがないといいます。香港や韓国が目と鼻の先なのに海外に行ったこともありません。さらに驚いたことに、彼女は長崎市を含む九州本土にも行ったことがないといいます。明治にこの島に生まれ、原爆が長崎市に投下された太平洋戦争、朝鮮戦争、高度成長期、オイルショック、冷戦終結・・・激動の20世紀を、福江島でどのように見つめそして感じていたのでしょうか。おそらくその後も島を出ることなく一生を終えてしまったでしょう(おばあちゃん、生きてたらごめんね)。福江島は本当にすばらしい島だけれど、ずっと島に缶詰なんて・・・・私はこんな人生は耐えられないと思いました。欧米の世界地図で見ると日本は本当に東の端っこのちっぽけな小島です。世界地図を基準にしたら日本列島全体が、日本地図を基準にした福江島のようなもの。けれど世界にはいろんな人が住んでいていろんな文化があり暮らしがあるはず。それを実際に見たいと強く思いました。日本という小さな島を出て外の世界を見てみたい。そうでないと、このおばあちゃんのように外の世界を知らないまま年をとってしまうような気がして、あせりすら感じました。今思えば、福江島のおばあちゃんは、家族と島に生活するだけで満ち足りていて、外に行きたいとも思わない人、つまり幸せを内に見つけられた人であって、海外に行きたいのに行けない不幸な籠の鳥というわけではなかった。人は旅よりも大切なもの(仕事・家庭・子供・彼氏彼女など)を見つけたときそれを優先するし、旅なんか必要ですらなくなる。私は旅よりも大切なものにめぐり合っていないというだけなのかもしれない。それはともかく私は福江島に行って以後、将来は絶対にいろんな国を見てくるぞと心に決めたのでした。

【旅行時期】2006/11/~2006/12/
【エリア】南極
【テーマ】
【投稿者】km

道元の、宋での只管打坐 の日々を辿る(by 彷徨人さん)

五島列島
        一人行く 旅の中空 蜀葵(からあおい)
  
  夜の徒然に,立松和平著『道元禅師』上下2巻を読み終わるや、当然の如く、早速道元の入宋を辿らねばという思いに駆られ、新たな“わが中国の旅”の準備が始まった。


  24歳の道元禅師が、師事していた建仁寺の明全和尚と一緒に、博多津より中国明州慶元府(現在の浙江省寧波市)を目指し、日本の商船で旅立ったのは、1223年3月下旬のことである。当時の入宋コースも、これまでに多くの遣唐使船が辿ったコースとほぼ同じで、まずは、船は五島列島を通過するや、東シナ海を一気に横切り,泥で濁る長江河口を目指し進んで行く。雨や風に晒され、波に揉まれながらも、揚子江河口から大陸を望みながら、陸に沿って、更に西に向かい、杭州湾を横切り、その先にある甬江(ようこう)河口で、潮待ちをし、満潮に乗り一気に甬江を上り、寧波の三江口の波止場に着いたのは、明確な記録はないが、国を出ておそらく十余日目であったろう。寧波(ニンポー)の三江口は、名前の通り、甬江、奉化江,そして余姚江の三川が合流する地点にある内港と言うか、河港である。道元のこの旅は、正師を求める、つまり仏祖釈迦との命脈を連ねるための旅であったが、三江口到着早々、道元は、僧侶としての資格不足を問われ、上陸することができなくなり,止む得ず船での生活をしばらく続けることになった。
  この河港での滞在中、道元に大きな影響を与えた出来事があり、後に道元は、『典座(てんぞ)教訓』の中で、この時のエピソードを語っている。港で上陸許可を待っていたある日、名刹阿育王山広利寺の典座(寺の食事係の僧)の老僧が、端午節の行事のための食事に使う椎茸を、日本商船を探し、彼が乗っている船に買いに来た。この老僧と仏法の話がしたかった道元は、早速応対し,今日は此処にお泊りになりませんかと誘うのだが、老僧は食事の仕度をしなければならないと言って、それを固く断るのである。道元は、『貴方のような徳のありそうな老僧が、坐禅や仏法の議論よりも,食事の仕度を優先させるのは、そこに何か良いことがあるのですか』と、執拗に尋ねると、老僧は笑いながら,『日本の若いお方よ、貴方は修行が何であるかがまだお分かりではないようですね』と言い残して、寺へと戻って行きました。その後、この老僧とは、道元が修行している天童寺に尋ねて来てくれた時と、この老僧が故郷の四川省に帰ることを知り、道元が、この老僧のいる阿育王寺を尋ね、別れの挨拶に行った時の、都合2回会っただけである。しかし、後に道元は、『あえて文字を知り、弁道を了するは、すなわち彼の典座の大恩なり』と述べている。


上陸を許された道元は、まずは、明全和尚が先に入山している臨済宗の天童山景徳寺に入るが、その後、現在の浙江省内を、正師を求め、五山十刹と言われる大寺院を順次遍歴するのである。




道元の半月余の生命を賭けた入宋に比べると、僕は日本を、午前9時に飛び立ち、10時半(現地時間)上海浦東空港着、リニアーモーターカーと地下鉄に乗り換え、11時50分に上海南駅に到着、駅近くの長距離バスターミナルを12時50分に出発する寧波行きの長途汽車(長距離バス)の席を確保し、高速道路を走り、最近開通した杭州湾に掛かる約40キロの寧波杭州湾大橋を渡り、寧波汽車南駅(長距離バス停)に15時半に到着した。そこから徒歩3分にあるホテルにチェックイン後、37度の気温に、しばしの休憩をとる。17時ごろにタクシーで、奉化江、甬江、余姚江の交わる三江口を目指し、奉化江に掛かる江厦橋に立ったのが、17時10分(現地時間)頃であるから、国を出て、9時間余で目的地三江口に着くことができたのである。橋の上から眺めると目の前には、3つの河の交わるパノラマが広がり、早速道元さんが上陸した地点を探し始める。800年前の道元さんが上陸した時とは、河の流れも、川幅も、周りの風景もすっかり変わってしまっているのは当然ではあるが、この地区は、老外灘として整備されつつあるので、今では、5年前に来た時の状況さえも思い出すことが難しいほどの変化が見られる。左手の堤防付近は公園として整備されており、その中に、些か異形であるが、遠目にも石碑ではと思われるようなものが見え、急いで下りて行った。木々に囲まれたあたりに石碑があり、石碑の表側に回ると、“道元禅師入宋記念碑”と刻んだ文字が、眼に入ってきた。
  その前にあるベンチにしばし座り、道元が正師を求め遍歴したお寺のうち、5年前に訪れたことのある天童寺、阿育王寺、そして天台山国清寺での、道元さんの”只管打坐”の日々を、いつの間にか想像していた。いつもの事ながら、方向の定まらない僕の思いは、今度は、永平寺の回廊を上り下りするたびに、その原型となった正師如浄和尚に出会った天童寺の廻廊に思いが巡り、若き修行の日々を思い出しては、自らを更に律したであろう道元の凄さに感嘆しながらも、この地と、遠き越前の永平寺との摩訶不思議な繋がりを、なぜか、とても面白く感じ、やがて嬉しくなってくるのである。異邦人であろうとも快く迎える大らかさと、命を懸けても真実を極めようとする健気さと謙虚さが,嘗ては日中の間に確実にあったのだと思わざるを得ない。その大らかさと健気さ、そして謙虚さは、今はどうなっているのだろうか。日中を思いながら、この大陸を旅する時の、常なる僕の思いでもあるだ。



  翌日、河姆渡遺跡に向かうため、前日到着した寧波南駅から、旧式の中型バスに乗り込んだまではよかったのだが、路上に出るやまずはエンスト。エアコンが切れると、体中の汗が一気に出始める。運転手は、特に慌てる風情もなく、手馴れた感じで、修理し始め、2、30分後に再び動き始めた。農村から山道に掛かるあたりで又故障、今度は10分ぐらいで修理完了。やがてT字型に交差する山道で、降ろされ、“この坂道をまっすぐ下りて行きなさい”と、車掌に言われるまま坂を下りていくと、まずは両側には建築途中で投げ出されたかのような建物が数棟建っており、その間を更に通り過ぎ、下っていくと、やがて川淵に突き当たる。その脇の小さな空き地の木陰に、年配の男女が座っており、私にそこに座るよう席を空けてくれた。向こう岸に渡る舟は間もなく出ると言いながら、私のことは何も聞かず、このあたりのことを、ぼつぼつと説明をしてくれるのである。その話から、目の前の川は姚江で、その対岸までの渡し舟があり、この渡しが、”河姆の渡”で、向こう岸に広がるのが河姆渡遺跡だということが分かってきた。対岸を眺めると、写真で見たことのある河姆渡遺跡の石碑が見え、実は、それでほっとしたのである。時間が来たのか、男は立ち上がり、小舟の準備をし始め、女は、自分の自転車の荷台に僕の荷物を載せるや、そのまま小舟に乗り込んで行くので、僕も続いて乗り込んだ。日差しの強い中、艪を漕ぐ音に些かの涼を感じながら、向こう岸には4,5分で到着した。丁度お昼であったので、遺跡見学の前に、舟着き場の前にある飯店に入り、昼食を取ることにした。河姆渡遺跡の真っ只中での野生料理の昼食である。


        夏草や 河姆渡5元の 渡し舟


  僕が河姆渡遺跡に興味を持ったのは、単に古代ロマンへの憧れに過ぎないのだ。稲は長江中流の遺跡で、9000年前の稲が炭化したものが発見されているが、陸稲だと言われている。ここ河姆渡遺跡では、7000年前の炭化した稲が発見されている。日本に水田の稲作技術が入ってきたのは2300年前だと聞いたことがある。この河姆渡に立つと、極めて単純な発想だが、当時の状況から見て、“稲作技術を持って、日本に渡ることのできる中国大陸の地域は、極めて限られてくるのではないか。河姆渡遺跡の民には、水田技術があり、しかも海での漁業もしており、その海に出て海流に乗れば、九州には2日間で着いたと言う実際の漂流者の話もあることからも、この地から日本への移住は極めて可能性が高いのだ”との思いが沸いてきた。長江文化圏の下流で平和に過ごしていた河姆渡の民が、天候の不順による食糧難から南下してきた黄河文化圏の勢力に追われ、大挙して海に逃れ、潮に導かれて日本に流れ着くと想像するのも面白いのではと考えたのである。太湖の辺りにいた倭人が、村長の娘卑弥呼の予知能力を頼りに、後漢の騒乱期に、一族で九州に逃れてくる小説を、昔読んだことがある。その影響もあるかもしれないが、わが思い込みは、極めて可能性のある渡来物語だと、この河姆渡に立ち、改めて確信を得たのである。


  河姆渡遺跡は、杭州湾に面する余姚市にあるが、その北隣に、魯迅や秋瑾女史の故郷であり、紹興酒でも有名な紹興市がある。紹興市は、12年前に、魯迅の故郷も見たくて、一度来たことがある。しかし町は大きく変わり、経済的にも大きく成長しているように見受けられる。翌日、この呉越は越国の古都を見学するには、輪タク(人力三輪車)に乗り、のんびりと廻るのが相応しいとばかり、早速、輪タクの親方と値段の交渉をし、輪タクで颯爽?と出発した。まずは秋瑾女史が処刑された軒亭口に向かい、秋瑾烈士記念碑と白玉の立像の前で写真を撮り、周恩来祖居、そして拡充整備されつつある魯迅文化広場を見学し、その後は、繁華街を横切り、越の古城の越王台に向かう。僕がこの街で一番の楽しみにしていたのは、何と言っても、特別においしい紹興酒を呑むことである。その夜は、口当たりは仄かな甘口、余韻に酸味を微かに残しながらの喉越しの感触を楽しみ、如何なる料理とも張り合わず、殺さず、控えめで、まろやかな”十年陳稽山清”をゆっくりと飲みつつ、魯迅の愛した紹興料理を堪能したのである。



  今回の旅行では、これまでの中国旅行でお世話になった人々を招待しようという計画を立てていた。今では、上海から蘇州まで在来新幹線(中国では、”動車組列車”と呼ばれているが、日本の新幹線車両と同系統である)で、30分ぐらいで行くことができる。そこで、場所は、魚米の里の蘇州で、今人気ナンバーワンだと言われている飯店は、獅子林と拙政園の中間に位置する蘇州民族博物館の裏手に当たる『呉門人家』(蘇州は嘗ては呉の国である)と聞いたので、早速この飯店を予約した。当日、9人の人が参加してくれ、和気藹々の時を楽しむことができた。お酒は、もちろんわが愛する名老酒”石庫門黒標“である。
  当日注文した主な料理は、『刺毛?筒』(?の字は、魚偏に、旁は善で、田うなぎのこと)『瓜姜桂魚糸』『八宝鴨』『黄?河鰻』(?の字は、火偏に、旁は悶で、ぴったりと蓋を閉め、とろ火で煮込む料理方法)であるが、土用の丑の日は過ぎていたが、夏バテ対策のため、特に、田鰻料理の『刺毛?筒』と、日本の鰻と同種類の鰻料理である『黄?河鰻』を注文したのだ。 (第50回)



  





表紙写真:寧波市三口江にある道元禅師の入宋記念碑









【旅行時期】2008/07/24~2008/07/30
【エリア】浙江省
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】彷徨人

中国旅行記12(3):2月17日上海、豫園(by 旅人のくまさんさん)

五島列島
<2007年2月17日(土)>

 今日が旧正月の大晦日です。中国では、除夕(Chuxi)と呼ばれています。この夜、ほとんどの世帯で親族が一同に集まり、食事やおしゃべり、マージャンなどをしながら、紅白歌合戦の中国版、春節聯歓晩会を見る習慣があります。日本の紅白は視聴率が低迷して久しいですが、中国の紅白は、なんと視聴率が90%を超えています。

<市街地のゴルフ練習場へ>
 昨晩は雨と濃霧で、市街地にあるゴルフ練習場を探すことが出来ませんでした。それで、朝一番にそのゴルフ練習場を目指しました。目標は、超高層ビルのグランド ハイアット(上海金茂君悦大酒店)のすぐ近くと言うことでした。
 昨晩は視界が悪く、見付けることが出来なかった練習場でしたが、今日はすぐにゴルフネットが視野に入り、入口もすぐに分かりました。昨晩、その前を通っても分からなかったのが、不思議に思えました。
 超高層ビルのハイアットを始め、超高層ビルが林立する中心街に、ゴルフ練習場があるのは不思議な感じでした。日本語でのネット検索も出来ます。「平日は仕事帰りのサラリーマンで賑っている」との紹介がありました。東方明珠塔もすぐ近くですが、上部は完全に雲の中でした。

<飲茶のお店で昼食>
 昼食のお店は、日本を出発する前に、Enちゃんからお聞きしていました。花園飯店の前の飲茶料理のお店、ジャディ・ガーデンです。安くて美味しく、サービスも洗練された綺麗なお店です。国際電話でEnちゃんが予約をされていました。
 今日の料理も申し分ありませんでした。混んでいましたから、多少の料理の遅れはありましたが、ぷりぷりの川海老が一杯入ったシュウマイ、ショウロンポウ、餃子を始め、写真を撮るのを忘れて舌鼓を打ちました。飲茶料理には黒酢が良く合います。この日もたっぷりと使いました。
 OtさんがEnちゃんを通じて注文された品が、上海焼ソバでした。太目の麺を使い、野菜もたっぷり入っていました。この料理も、以前に食べたことがあります。
 これだけ美味しい料理を前にすれば、少しだけはビールを頂きたくなります。昼ですから紹興酒は遠慮しました。昨晩の創作四川料理に続き、今回も大満足のジャディ・ガーデンでの昼食でした。

<豫園の草創期>
 この日の午後の見学は豫園でした。その沿革について、インターネット情報などを参照しながら説明します。最初は創建の当時のことです。
 豫園は、上海人の潘允瑞という四川布政使(四川省長)を務めた役人が、かつて刑部尚書(法務大臣)であった父親、潘恩への孝行のために建設した個人の庭園が始まりです。1559年に建設が開始され、18年後に完成しましたが、その時はすでに父親は亡くなっていました。
 1559年の日本は、室町幕府の13代将軍義輝の時代です。完成した1577年には室町幕府最後の将軍、義昭はその職を退き、群雄割拠から安土桃山時代へと移行した時代でした。
 清代初めに潘家の衰えとともに一時荒廃しましたが、1760年に上海の有力者達が再建に乗り出し、同時に豫園は隣接する城隍廟の廟園となり、西園と改称されました。当時の西園には湖心亭や豫園商城の大部分が含まれ、現在の豫園の2倍の広さがありました。日本では江戸時代の真っ只中で、鎖国政策の時代でした。
 その後、各種の商業公会(商業組合)により、園内に全部で21の公所(組合事務所)が設けられました。一時、1842年の阿片戦争以来、小刀会蜂起、太平天国軍の上海攻撃等の戦禍を被りましたが、豫園一帯は、従来からあった城隍廟の門前市と一体化して、商業街として発展していきました。
 ところで、阿片戦争は、当時の中国清朝とイギリスとの間で、アヘンの密輸入が原因で1840年から2年間行われた戦争です。南京条約締結をもって終戦となりました。
 また、太平天国の乱は、中国清朝代に起きた大規模な反乱です。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされ、この乱により2000万人の犠牲者を出したと言われます。
 豫園は、1956年に西園の約半分が庭園として改修・整備され、現在の姿となり、その他の部分が豫園商城となり、現在に至っています。

<租界時代の上海>
 アヘン戦争の続きです。1842年、中国清朝がアヘン戦争に破れ、上海は南京条約により開港を強いられます。その後1846年には、最初の英国による租界ができます。租界とは 国家が土地を租借するという意味で、割譲ではないのですが、外国が警察や行政を行うため実態は割譲と変わりません。
南京条約が規定する主な内容は次の通りです。
? 香港島を割譲する。
? 賠償金として銀2100万両を四年分割で支払う。
? 広州、福州、アモイ、寧波、上海の5港を開港する。
? 公行の廃止。
 その後、南京条約の付属協定として「五口通商章程」と「虎門条約」が締結されました。領事裁判権、一方的最恵国待遇等、不平等な権利が英国に付与される、完全な不平等条約でした。
 その後フランスなどが加わり、日本も共同で租界を持ち、列強はここを中国侵略の拠点としました。日本が租界に加わったのは、1895年に日清戦争に勝利し、下関条約が締結され、治外法権を獲得したためです。
 ところで、上海は国際貿易港として栄えましたが、同時に犯罪の巣窟ともなりました。その理由は、上海には三つに区分された租界エリアがあって、その区域毎に警察権が違っていて、端境には取り締まりが及びにくかったためとされます。加えて、フランスその他はアヘン売買に裏から手を貸していて、中国政府でも取り締まることが出来ませんでした。
 上海では中国各地からやってきた流入者が自助組織(結社)を作り、中国政府を凌ぐ勢いを持っていました。加えて、内乱で難民が租界に溢れました。難民、結社、列強、アヘン、賭博、そういった諸々の要素が重なり合って、「魔都」上海を作り上げました。
 実際に上海租界を支配したのは、イギリスの植民地資本家と言われる人々でした。これらの人々は、アヘン戦争の前後に中国に来た冒険商人でした。多くの人々はイギリス国内で受け入れられずに東洋まで流れて来ました。ケズウィック家、スワイヤー家、サスーン家などで、低地スコットランド人が多いとされます。

<現在の豫園>
 上海の地図を見ますと、ほとんどの道路は、東西もしくは南北に走っていますが、黄浦江の側に円形になっている道があります。これは、倭寇の襲撃を防ぐため、16世紀半ばに作られた城壁だったところです。
 倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島、中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊を指します。
 元寇の際、元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民を中心に始まり、長い歴史の中で、現地の勢力を巻き込んで、複雑に変化していったようです。和寇と表記されたり、海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれます。
 話を本題に戻します。城壁は周囲5キロ弱、高さは8メートルあったとされますが、1912年に取り壊され、現在は人民路と中華路になっています。この円形の道の内側は旧上海城と呼ばれ、租界時代の上海においても中国人だけが住む地域だったようです。
この地域の中心に豫園があります。豫園の「豫」は「愉」に通じ、すなわち「楽しい園」という意味です。現在、豫園は外灘と並び、上海2大観光スポットとなっています。

<大晦日の豫園散策>
 この日、昼食を終えた後、豫園近くの地下駐車場に車を留めて豫園に向かいました。豫園商城から少しだけ外れた場所でした。この豫園商城を抜けますと、豫園入口の前に緑波池という蓮池があります。この辺りが一番の賑わいを見せる場所です。
 池の中に建っている2階建ての東屋は、ちょうど池の真ん中にあることから湖心亭と呼ばれています。400年前に建てられたものが、1784年に再建されたものです。中は喫茶店です。この日は立ち寄りませんでしたが、2階の席で龍井茶などが用意されています。
 中間の湖心亭と豫園とを結び、ギザギザにかかっている橋は九曲橋と呼ばれています。豫園の象徴的な景色として、絵葉書などにも紹介されている橋です。以前は石造りでしたが1932年に、鉄筋コンクリート製に修復されました。
 ギザギザになっている理由はいくつかあるようです。その一つは、「人間はジグザグに歩けるが、悪霊は真っ直ぐ進むのでこれを池に落としてしまうため」とか、二つ目は、「湖岸から見たデザインがいいとか、橋をジグザグに歩けば景色がいろいろに変わるから」といった理由です。
 曲がる回数が九回であるのは、九は一桁の数の中で一番大きいので、規模が大きいことを象徴するとも言われています。
 この緑波池前の広場は、正月の飾りも大掛かりです。昨年は酉年でしたから、大きな鶏の飾りがありました。今年は60年に一度の金豚の年、例年より大掛かりな飾りのように見受けました。蓮池にも大きな蓮の飾りの他、三国演技の人形が飾られていました。夜、豫園を散策したことはありませんが、雪洞が点れば、素晴らしい光景になるようです。
 豫園での楽しみの一つが、買い物です。今年もお茶の専門店で、花茶を買いました。これはジャスミン茶をベースにして、赤や黄色、白色の花が開くように細工したものです。朝淹れてから、夕方まで熱いお湯を注いで6、7回はお茶を楽しむことができます。

<大晦日の宴会>
 大晦日の宴会は、昨年と同じように大きなレストランが予約してありました。お言葉に甘えて、日本からやって来た全員が出席させて頂きました。大きなテーブルが三つ予約されていました。後ろを通るのも不自由するくらい、ぎっしりテーブルがセットしてありましたから、「お皿の取替えサービスは出来ません」との話があったようです。
 この日は時間を限って2チャージで宴会がセットされていました。ご親戚が顔合わせされる大晦日の宴会ですから、何度もお会いしたEnちゃんの従兄のPiさんやShiさん、昨年10月の山西省旅行でご一緒させて頂いた孫濱先生のご兄弟や、ご親戚の方など、顔見知りになっていた方が多くお見えになりました。次から次に運ばれるご馳走を戴きながら、ひとしきり乾杯が続きました。

<大晦日の2次会>
 1次会の後、S.P.先生とYa先生を銀都路のご自宅にお送りした後、2次会のお宅に向かいました。Enちゃんの従兄の方で、ご主人が俳優の方です。私も2004年の11月に名古屋の新栄のお店でお会いして以来、何度かお目にかかった方です。
 ご自宅は銀都路と同じように、セキュリティがしっかりした住宅地にありました。4階建てのマンションの最上階でした。広くて、内装も素晴らしい一通り見学させて頂きました。
 俳優として、ご活躍されているようです。棚に飾られた受賞のトロフィーや盾なども拝見させて貰いました。西安からご親戚のご夫婦もお見えになっていましたので、ご一緒に大晦日の2次会を楽しみました。
 2次会が盛り上がったところで、新たなお客さんもお見えになりました。奥さんも俳優の方と、その方のお兄さんです。1次会でもお目にかかりました。酒豪のお二人が揃って、ますます、2次会が盛り上がりました。
 すっかりご馳走になった後、銀都路の住宅へ戻りました。大晦日のこの日、まだこれがお仕舞ではありませんでした。自宅の前で爆竹を鳴らし、零時を過ぎてから街中で鳴り始め、上がり始めた花火を見終えたところでお開きとなりました。


  豫園で
 デジャビュを覚ゆる異国の大晦日父が語しドラの音聞こゆ

 正月の赤き飾は満ち溢れ人また溢る豫園商城

【旅行時期】2007/02/16~2007/02/18
【エリア】上海
【テーマ】イベント・祭り
【投稿者】旅人のくまさん

長崎の教会を訪ねて(その1−五島列島)(by tamegaiさん)

五島列島
  長崎県には数多くの教会がありますが、その多くはカトリック教会です。特に五島列島には江戸時代に切支丹迫害を逃れて、移り住んだ人々がたくさんいます。彼らは明治になってキリスト教が解禁されると、いち早く教会を建て、自分たちの信仰を守リ通しました。これらの教会の大半を建てたのは、鉄川与助でした。今長崎の教会は注目を集めています。「長崎の教会群」をユネスコの世界遺産に登録しようと、大きな運動が展開中です。

【旅行時期】2005/05/~2005/05/
【エリア】五島列島・福江
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】tamegai

長崎旅行記〜2008 五島編〜「離島巡り 2008:福江島」(by ろくおさん)

五島列島
僕がまだ小学生の頃、夏休みの家族旅行で、五島列島に行く案がありました。でも、結果的に、お預けになってしまいました。あれから、20年余り…。念願の五島列島の旅をしてきました。噂に聞いてた通り、海の美しい島でした。
1日目…(午前中)伊丹発、福岡経由で、五島着(午後)、福江地区(泊)
2日目…(午前中)堂崎天主堂、城岳展望台、(午後)魚津ヶ崎公園、水之浦教会、遣唐使ふるさと館、空海記念碑、高浜海水浴場、頓泊海水浴場、大瀬崎灯台、玉之浦大橋、福江地区(泊)
3日目…(午前中)観光歴史資料館、(午後)鬼岳、鐙瀬熔岩海岸、福江空港、鬼岳、福江地区(泊)
4日目…福江城跡、(午前中)五島発、福岡経由で、伊丹着。

【旅行時期】2008/10/19~2008/10/22
【エリア】五島列島・福江
【テーマ】
【投稿者】ろくお